僕の生徒には、
やたらと“国立大の秀才”が多い。
東大、京大、阪大、北大、琉球大、京都工芸繊維大
(思いついた順)
もちろん、私学の子たちもいます。
みんな
僕よりも大学受験を頑張った人たち。
で、そんな彼らを前に、
元・法政大学(文系というより超体育会系)
の僕が、胸を張って言うんです。
「キックはだな、“慣性”を使ってだな…」
……言ってて、自分で笑っちゃいます。
(おまえ誰だよ、ってねw)
でも、ふと思ったんです。
うまくなる選手で、
本当の意味で
「頭悪いなぁ」って選手はいない。
これを裏っ返すと
キックと向き合うと、頭が良くなる。
ほんとに。
これ、笑いごとじゃなくて。
たとえば、
ボールが思い通りに飛ばない。
力の入れどころが違うのか?
踏み込みが浅いのか?
それとも、
昨日のカレーのせいなのか?(←違う)
そうやって「なぜ?」を延々と考える。
これはもう、思考の筋トレなんです。
最初はできなくても
しっかりノートに反省を
書き殴ってるような選手が
結局伸びる
キックって、
ただ脚を振るだけじゃない。
言語でインプットして、
視覚でレビューして、
感覚でアウトプットする。
その繰り返しの中で、
頭と身体がだんだん“同じ言葉”をしゃべり出す。
それが、
上達のリズムなんです。
そりゃあ東大生もハマりますよ。
だって、
キックは“考えるスポーツ”だから。
理系も文系も関係ない。
感覚を言葉にして、再現して、修正する。
これができるようになると、
もう“日常の見え方”まで変わる。
街を歩くときも、
風の向きを無意識に探してる。
「あぁこれくらい吹いたら目標を1mズラそう」とか
もう練習と日常の境目なんて、とうにない。
(やや重症ですが、健康です。)
でもね、
これが面白いのは、
正解がないところ。
10年前、
アメリカ・アトランタで
NFLのレジェンドキッカー、
モーテン・アンダーセン氏に
(NFLで生涯2,544得点、、、)
直接指導を受けたことがありました。

モーテンアンデーセンさんと丸田(23歳)
モーテンさんは言いました。
「キックはアートだ。
早朝に叩き起こされても、
常に同じ放物線を描け!」
そのあと、
当時NFLでプレーしていた
イタリア人キッカー、
ジョルジオ・タベッキオと
晩ごはんを作っている時、
彼がふとこう言ったんです。
「キックは、
1つ1つのピースを見つけていく、
自分を探す旅さ!」

ジョルジオと丸田(29歳くらい)
……いや、
そんな漫画のキャラみたいなセリフ、
よくスッと出てくるな、と(笑)
でも、不思議と刺さったんですよね。
モーテンさんの“アート”と、
ジョルジオの“旅”。
どちらも、正解がない世界の話です。
フォームにも、答えなんてない。
“自分の中の最適解”を探すしかない。
これって、
人生と一緒じゃないですか?
でもね、
僕が伝えているのは、
「正解がない」からといって、
「なんでもいい」という話じゃないんです。
だって僕らは地球に立っていて、
人間という身体を使っている。
だから、
“地球のルール”と
“人間のルール”は外せない。
重力があるし、摩擦があるし、
その中に身体があって、、、
そんな当たり前の
“自然法則”の上で、
僕は科学に基づいた基本を教えています。
そしてもうひとつ、大事なのは、
「迷ったときに、自分を導いてくれる“道標”を持つこと」。
どんなに才能があっても、
どんなに気分がのっても、
道標がなければ、すぐに迷子になる。
逆に、ちゃんと道標を持っていれば、
霧の中でも、どこへ行けばいいかは分かる。
フラットな道に戻って来れる。
それが、技術なんです。
よく言われるじゃないですか。
「みんな違ってみんないい。」って。
でも、僕のような
“教える立場”の人間がそれを言うのは、
どこか無責任に感じるんです。
正解はないかもしれない。
けど、明確にしなくていい遠回りや、
踏んだら取り返しのつかない地雷もある。
そんな道に進もうとする選手を見たら、
そっと肩をつかんで、「こっちだよ」と言いたくなる。
だから僕は、
知識のアップデートを止めません。
その上で僕は
「アートのための“筆の握り方”」を教えたい。
「旅に出るための“北極星の見つけ方”」を伝えたい。
その先に、どんな絵を描くか。
どんな道を歩くか。
それは、あなた次第。
ルールに縛られず、
でもルールを無視せず。
感覚を信じつつ、科学を忘れず。
そのあいだを、ふらふらと行き来するのが、
僕の好きな“キック”というアートです。
そんなわけで今日も、
僕は国立勢を前に、
「慣性を使ってだな…」とか言いながら、
ボールを蹴ってます。
彼らは真面目にうなずいてくれます。
(やさしい世界です。)











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